山崎 博史様からの応援メッセージ

しばさき彩ステーションのご近所の山崎博史です。

 

私は現在74歳、104歳になる母と妻と3人で調布市佐須に住んでいます。

調布に越してきたのは、私が大学生の時です。調布市にいるといっても当時は

仕事が忙しくて寝に帰るだけの生活でした。大手の印刷会社で70歳まで従事

しました。当時は経済成長真っただ中で新たな分野への進出もまかされ、

沢山の経験と成長をさせてもたったと思っています。

 

私は元々手先が器用で趣味は沢山ありました。仏像を彫ったり、箆鮒(へらぶな)の浮子(うき)づくりやゴルフ。

学生時代から友人と始めたカントリー調のバンドは60歳になり時間ができてから再開し、昔の仲間と月1回のライブ活動をしています。

 

地域に参加するきっかけは、妻を通して老人会から歌の会の楽器伴奏を頼まれたことから始まります。

70を過ぎてから初めて歌謡曲や懐メロをギター伴奏しました。仕事柄、人と話すのが好きだった事もあり地域の人たちと何か取り組むことに抵抗はありませんでした。

 

しばさき彩ステーションが開設されたときに、西田医院の西田先生の呼びかけで「市民協働でまちづくりをする」と話された時に大変共感しました。歩いて行ける距離に彩ステーションのような拠点があり、自分なりに何か関わりたいと思い参加しています。

 

歌声喫茶のように懐メロを歌う方たちのギター伴奏をしたり、ギターを弾いてみたいという要望に応えてギタ―レッスンをしています。

 

104の母も彩にコーヒーをのみに行きますし、妻も体操や良活セミナーに参加し、家族ぐるみで活動しています。

 

夫々が自分の力を少しづつ持ち寄って、共有することで自分も重宝されいて楽しいです。地域の拠点には色々な繋がりがあります。

 

元気な内から気軽に顔を出して拡がりをもっていきましょう。

松下様からの応援メッセージ

しばさき彩(いろどり)ステーションのサポーターをしている松下です。

 

私はケアラーとして在宅で夫の介護を8年間していました。といっても最初の内はデイサービス、ショートステイ利用などの介護保険を十分に利用しながらの介護でした。

 

疾患と共に認知症状もありましたが、健康な時から夫が好きだった旅行やコンサートに一緒に付き添たりと夫に寄り添った介護をしていました。しかし、2~3年前からは私にとって様々な選択と判断を迫られる時期に突入していったのです。

 

体調を崩し入院した時を境に夫は口から食べる事が出来なくなりました。病院で、胃ろうや中心静脈栄養の説明も受けました。以前から夫は延命治療は受けたくない、家で過ごしたいと話してくれていました。

 

その頃、私は石飛幸三先生の「平穏死」という本に出会いました。その本の中で先生は、栄養を入れる事は身体が死を受け入れようとしている自然の流れを妨げている事でむしろ本人に苦痛を与えていると。夫の「平穏な死」を受け入れる事に初めて直面した訳です。

 

病院には口から食べられない時期にきたのなら、積極的な延命はしない事を伝えました。病院側も夫と私の意志を尊重してくださり、「在宅での看取り」に踏み切ることとなりました。

 

退院後は訪問看護、訪問入浴、訪問介護と万全のサポートをもらい自宅のベッドには夫の好きな庭木、お日様、大好きな音楽の日常生活がありました。その自然の日常の中で夫は私と家族に看取られて逝きました。

 

しかし、ここからが更なる悲劇でした。夫を亡くしてから思い出に浸る日々、私は生きていても意味がないと力つきそうでした。。毎日一人で泣く日々の中、ゆうあい福祉公社の地域包括支援センター長に思い切って相談した訳です。彼女は「いろどりに行ってみたら?」とアドバイスをくれました。ちょうど「いろどりステーション」が7月に開所したばかりでした。

 

「いろどり」では様々な人との出会いがあり、自分もその一員として活動することで物理的に夫の事を考える時間が少なくなり、活動に没頭しました。この落ち込みの時期にいろどりステーションと出会い地域の人たちとキャッチボールをする事で私は救われました。

 

趣味の水彩画やガーデニングもやりながら、今度は18才になる犬のピノちゃんの介護が始まり忙しい毎日を送ることができています。